山内マリコ『あのこは貴族』めも
山内マリコ『あのこは貴族』読んだ。
登場人物慶應ばっかり。慶應から離れてみるとギラギラしてる人やお金持ちばかりの大学だったような気がしてくるけど、私にとっては普通に地味で楽しい大学生活送った場所なんだよな。
それを忘れかけていたなぁと思った。東京=慶應みたいな位置づけだった、この本でも私の中でも。憧れの中の東京、慶應の姿と実際は違うんだよな。卒業してから慶應のイメージが悪くなってたし(不祥事が定期的にニュースになるから)、世間のイメージと自分の中の慶應が乖離していて、自分が出た大学じゃない気がしていたことに気付いた。
お気に入りの箇所のメモ。
もし入学したのが慶應じゃなくて、内部生なんかいないもっと普通の大学だったら、こんな気持ちにいちいち苛まれることはなかったのかなぁと思った。もし早稲田に行っていたら……と考えた端から、早稲女と蔑まれる女の子たちの様子が浮かんだ。あっちもあっちで大変そうだ。
華子は知らなかったのだ。外の世界ではこうして、自分とはなんの接点もない人と、唐突に引き合わされる可能性があるのだということを。東京には、いろんな人がいるということを。
自分がいちばん正しいと信じて疑わない、自分のものさしでしか人をはかれない、狭い世界に君臨してきた女性。そういうおばさまは往々にして、美しいものや文化をこよなく愛し教養もあるが、なぜかそれが内面の寛容さには一切結びつかないのだった。
いずれにせよ彼らは、自分たちにとって馴染み深いこのキャンパスを、大勢の知らない人間がお祭り気分でわいわい踏み荒らしているのを、どこか冷めた、諦めたような眺めているのだった。
さらに謎だったのは、スーツ姿の新入生らしき人の中に、平田さんよりもはるかに垢抜けた、ファッション雑誌から抜け出てきたようなきらきらした子たちが交ざっていることだった。(. . . )彼女たちはなぜかすでにグループができていて、一体いつの間に仲良くなったんだろうと美紀は思う。
中庭のベンチでくつろぐ特権階級的な内部生は、まるでこの世界は全部自分たちのものみたいな顔をして、悠々とその一等地を占拠していた。
自分がどうあがいても手の届かないものを、なんの苦もなく手にしている内部生たちとの、嫉妬するのもバカらしくなるような大いなる隔たり。
ああ、日本は格差社会なんじゃなくて、昔からずっと変わらず、階級社会だったんだ。つまり歴史の教科書に出てくるような日本を動かした人物の子孫は、いまも同じ場所に集積して、この国を我が物顔で牛耳っているのだ。
(. . . )だから釣り書の見栄えはよくても、実際はスカスカなんです。