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オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』

母親になって後悔してる(オルナ・ドーナト、鹿田昌美訳、新潮社、2022)

 

孤独や退屈を乗り越えたいという願いから、または人生にもっと重要性と意味を与えたくて、母になろうとする女性もいるだろう。
(. . . )想像であれ現実であれ、女性の選択肢が限られている社会であればなおのことだ。(. . . )むしろ、母になることを通じて自分の立場を改善したいという欲求に端を発しているのだ。

 

彼(フロイト)の研究では、母は他者の機能としてのみ存在する。母子の関係において母自身の経験は常に消されているのだ。母を主体を見なさないことは、母を子どもの感情的発達の中心的で本質的な役割に充てるとともに、子どもの人生の背景にすぎない存在と位置付ける。母は、存在すると同時に存在しないものなのだ。

 

私の意見では、母であることにはいくつかのメリットがあります。出産後は、圧倒的な幸せを感じます。子どもとの親密な関係、帰属意識、自分への誇り--夢を実現したのです。それは私ではなく他の人の夢ですが、認識することはできます。(ブレンダ)

 

以前は文章を書いて、彫刻をつくり、絵を描いていました。創造するのが大好きでした。でも、何も残っていません。インスピレーションも活力もまったくないからです。(マヤ)

 

↑恐ろしすぎる。

 

女性は、いったん子どもを産むと、多くのことを捨ててしまいます。男性はそうしないのに。(. . . )なりたい姿になることが許されません。それはおかしなことです。母になると、望むことが何もできなくなる。私たちは、そのことと闘うためのシステムをこしらえなければなりません。

 

母性愛の概念の起源については、(. . . )どうやら、19世紀の間に西洋諸国で、愛の社会的認識に変化が起こったようである。この時期に、母性愛は、この愛の中にイデオロギーのプラットフォームを発見した社会的権威による厳重な監視と分類の対象となったのだ。つまり、母性愛を文化特有のシンボル、意味、慣習に結びつけることによって、母に特定の義務を課す愛の構造を作り出した。母は、子どもを愛さなければならないだけでなく、許容される狭い範囲内で愛情を示さなければならないのである。

 

ケアの倫理は女性の「本質」に関わるため、母性倫理もそれに従うべきだと考えられがちだ。つまり、母は「自然に」子どもへの多大な献身を感じ、自分のニーズや感情を消し去るほどの域にさえ達すると思われがちなのだ。

 

女性と胎児をつなぐへその緒は、子宮を遠く離れても存在する母子の絆の象徴である。

 

(. . . )多くの母は、子どもが幼児期をすぎて何年経っても、子どもを象徴的に養い、意識の中で世話を続けているのである。

 

母を主体として認めることは、母を役割として規定している社会では当たり前ではない。役割としての母とは、子ども劇の中で演じられるような母だ。この社会的台本によれば、母は主体ではなく客体であり、他者の生活に奉仕するために存在する独立変数なのだ。

 

母になって後悔する女性がいることを信じない人や、そういった女性に怒りを感じる人が本当に言いたいのは、女性が振り返って母へと移行したことにそれほどの価値がなかったと評価することは、社会にとって危険だということなのだ。